邪馬台国=ヤマトは間違い? 地形に見るヤマト建国の歴史
シリーズ「ヤマト建国は地形で解ける」⑩
地形から見えてきたヤマト建国の歴史
『日本書紀』に、来日したアメノヒボコに対し、垂仁天皇は播磨国の宍粟邑(兵庫県宍粟市)と淡路島の出いでさのむら浅邑(兵庫県洲本市)を下賜(かし)したとある。
しかし、アメノヒボコは「許されるなら、住む場所は自分で見つけたい」と言い、菟う道じ河(宇治川)をさかのぼり、近江国の吾名(あな)の邑(むら)(滋賀県米原市)にしばらく棲みついた。その後、近江から若狭国(福井県西部)をへて、西の但馬国にいたり、ここに居を構えたとある。
なぜアメノヒボコにここまで注目したのかというと、『日本書紀』に描かれた播磨→宇治川→近江→若狭→但馬をつなぐルートが、ヤマト建国に大いにかかわり深い土地だからである。
アメノヒボコの辿った道は、大切なヒントを隠し持っていたのだ。すでに話したように、弥生時代後期の日本海では、熾烈な主導権争いが勃発していた。
北部九州とつながった出雲の勢いは増すばかりだったが、「タニハ」も、侮れない力を有していた。
弥生時代中期末には、丹後半島の日吉ヶ丘遺跡(京都府与謝郡(よさぐん)与謝野町(よさのちょう))に、大型墳丘墓(王の墓)が造営されていた。長方形で台形、墳丘の斜面に貼石をめぐらせた「方形貼石墓(ほうけいはりいしぼ)」だ。
被葬者の頭のまわりには、大量の管玉(くだたま)が埋納されていた。この時期タニハでは、玉造りが盛んで、鉄製工具もみつかっている。後期に鉄器の量が増えているのは、「玉」を交易品にしていた結果と考えられる。弥生時代後期には、大型墳丘墓が登場する。
大風呂(おおふろ)南一号墳(与謝野町)のガラス製の釧(くしろ)(腕輪)は、海の外からもたらされた珍宝だ。また、朝鮮半島南東部と交流が盛んになっていった様子が、分かっている。
問題は、弥生時代後期にタニハから近江や畿内に向かって、先進の文物が流れはじめたことなのだ。
これは無視できない。
おそらく、日本海と瀬戸内海で展開された出雲とタニハの主導権争い
が、近江に幸運をもたらしたのだろう。内陸部に味方をつくりたかったタニハが、近江と畿内の諸勢力に接触したのだと思われる。そしてこれ以降、近江や近畿のみならず、東海(伊勢湾沿岸、尾張)まで、富を蓄えていくようになったのだ。
なぜヤマトの東側に、巨大勢力が現れたのかといえば、「タニハの思惑」が関わっていたからで、この事実が、ヤマト建国に大きく作用していったことは間違いない。
こういうことではなかったか。
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